Subject: 重要な他者、恋人、または家族(高校入学まで)
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Date: Mon, 30 Dec 2024 22:31:34 +0900

年末生きるのつらい病、今年も発症の季節がやってまいりました。

私は、一人でいるのがそんなに嫌いではない。でも、ふとした瞬間に、恐怖というか、苦痛というか、閉塞感のような、不安を感じることがある。
夜は特にそうだ。冬は尚更。

私には、心理学的な用語で言う「重要な他者」というやつが、いま現在存在するという感覚がない。
ところが、どうやら一般的にはそれは稀なことであるらしい。望むと望まざるとに限らず、たいていの人間には、重要な他者というやつが存在する。

20代後半の同年代で、両親ともに存在しない人間はまだそんなに多くないようだ。実家に帰省する、という概念は、多くの人に観測されるし、たとえ帰省しないとしても、それは何らかの選択の結果であって、自分の意志でそうしているケースがほとんどのようだ。

私には、家族というものが存在しない。兄弟も、親も、祖父母も、もう誰もいない。もう少し遠い親戚なら、多少存在するようだが、物理的にも心理的にも距離がある。それに、誰ももう私が誰か分からないだろう。むしろ、そうであってほしい。そう思ってしまう。

では過去には存在したのかといえば、それも怪しい。
私が物心ついた頃には、両親は別居しており、私は母親とその両親の下で暮らしていた。当時は、それが私にとっての「家族」だった。
まだこの頃は、頭数で言えば、重要な他者はそこそこいたのかもしれない。私、母親、祖父母、そして年末年始に招かれる親戚の人々。父親だってまだ生きていた。会うのは年に数回程度だったが。

小学校高学年に差し掛かったあたりで、数年の闘病の末、父親が癌で亡くなった。私は彼の冷たくなった手を握りながら、すでにこのときははっきりと思っていた。「ああ、結局話せなかったなあ」と。悲しいというより、後悔のほうが大きかった。

風向きが変わったのは、そこらへんからだろうか。

父親はそこそこ影響力のある人だった。それもあって、彼の亡き後をめぐってさまざまな争いが起きた。私の母親は、その争いで大いに消耗した。私は未成年だったから、委任状をいっぱい書いた。祖父が法定代理人になった。裁判もあった。通常この年齢では経験し得ないさまざまな「人生の後始末」を、私はそこで観測した。

母親は、生きづらい人だった。まあ無理もないだろう。彼女もそこそこ特異な人生を送ってきたのだろうから。
彼女の父親、つまり私の祖父は、東大卒の官僚だった。転勤族で、地方や海外にいたこともあり、これまたよくある人生というにはちょっと特異的だったようだ。ましてや、時代は昭和、そして結婚した相手もまた、平凡ではない人間。苦労はいっぱいあったようだ。
その上、私は低出生体重児、いわゆる未熟児だった。生まれてから数カ月間、通称「水槽」と呼ばれる哺育器に入れられ、チューブでつながれていたらしい。
私が小学校低学年くらいの頃だったか、母親は司法試験に挑戦するくらいには、向上心があり、しかし論文試験に通るほどには強くはなかった。

ストレス要因はまだまだ続く。
父親の死のバタバタが一段落した頃、祖母に認知症の症状が出始めた。
冷凍枝豆を、スーパーで無限に買ってくるのだ。冷凍庫が一杯になっても、それ以上に買ってきた上、常温で放置する。明らかに壊れ始めていた。
ちょうど私は小学校も最終学年。母親は、新たに部屋を借りて、私と2人暮らしを始めることを決意する。私への悪影響を考慮してのことだと言っていた。

とはいえ、いままで祖父母の家で「娘」としての役割を担ってきた母親が、家事をうまく回せる保証はどこにもなかった。祖父母の家に居候していたときは、祖母が料理を作っていたのだ。私は、母が実家で料理をしているのは見た記憶がない。
もちろん、努力はしていた。運悪く、給食は小学校までで、中学校に入ったら、お弁当を持参することが求められるようになった。
私は、冷凍食品の唐揚げが苦手だ。でも、残せば、母親は不機嫌になる。
そうでなくても、母親は不機嫌だった。その要因は色々あっただろう。私がテストで悪い成績をとるとか、言うことを聞かないとか、勉強しないとか、宿題を出さないとか。家事を手伝わないとか、料理を完食せず味に文句を言うとか、私が死んだ魚の目をしているとか。

なぜ死んだ魚の目をしているのか。なぜ中学の制服(とはいえ指定の制服はない「なんちゃって」だったが)を買いに行ったときに、私が母親に「べつに、なんだっていいよ」と反抗的な態度を見せるのか。なぜ私が日々鬱々としているのか。
そのときはまだ、言えなかった。

さらに追い打ちをかけるように、母親の乳がんが発覚する。抗がん剤治療、転移、放射線治療、転移…終わりなき闘い。苦痛と、消耗。
消耗しきった人間しか、その家にはいなかった。たった2人、誰も健康な人間はいなかった。そして、戦争が始まった。

母親はごはんを作ってくれなくなった。母親が部屋に引きこもり、泣き叫ぶ音が聞こえる。たまに机においてあるお金と、罵詈雑言だったり泣きながらの謝罪だったりする、不安定な書き置きとを回収し、私もコンピューターの世界にこもった。
コンピューターは、私を見捨てない。コンピューターは、私を色眼鏡なしで見てくれる。コンピューターは、理不尽なことはしてこない。コンピューターだけが、私の、友達。

見栄を気にしてか、お弁当は断続的に用意されることがあった。用意されない日は、忘れちゃいました〜と担任の先生に言うと、職員室に常備してあるお皿と割り箸がもらえる。
そう、クラスメイトに、分けてもらうのだ。中学校には購買がなかったし、買ってくるのも禁止だったからだ。
そうやって、私の自尊心は少しずつ削られる。
そうでなくてももう、十分に削られているのに。

先生方は、心配してくれた。あるとき、学年担任の先生が、近くのカレーやさんに連れて行ってくれて、夕飯をおごってくれたこともある。もちろん、他の生徒には内緒で。

家を出ることを担任の先生に相談したこともある。大学の附属校だったから、最悪の場合は家を出て学校まで来て守衛さんは24時間いるから、そこで担任を呼び出してくれたらなんとかすると。でも、家を出るのはおすすめしないと。児童養護施設に入ったら、将来が大変だからと、そう諭された。

思えば、中高時代は、将来というものを過剰に人質に取られていた気がする。
失敗が許されない世界だと、社会は残酷だと、迎合こそが最適解だと、誰もがそう思っていたし、その方向を向くよう強いられていた。

同調圧力はそれだけではなくて、第二次性徴っていう最悪な人体のシステムが、私の首を文字通り絞めていた。

もう限界だった。

私は、歌うのは好きだった。合唱祭では、クラスの男声パートのまとめ役をやっていた。楽譜が読めたし、MIDIの打ち込みもできるし、全パート覚えてるし、真面目だったから。それに何より、無言でそっち側に振られるよりも、役職だからそこにいるんだって、自分に言い聞かせたかった。ほら、たいてい合唱祭に本気出すのって女子じゃん?私のクラスは、伴奏者も、指揮者も女子だった。私もそっち側にいたかったんだよ。

でも中学2年のある日、放課後に合唱祭の練習をしてみんなが帰ったあと、私と指揮者と伴奏者が話しているところに、担任の先生がやってきて、私に男声パートの人々のやる気のなさをどうにかしたいよね、何かアイディアある?という話を振ってきた。

私はだいたい答えが予想できる質問を、だけど聞かずには居られなくて、聞いてしまった。
「どうして僕に聞くんですか?みんなではなく。」
「それはね。君が、男子だからだよ。」

私のコップが溢れた瞬間だった。へへ、わかっていたことだけどさ、そんな明確に言わなくてもいいじゃないですか。
泣いてたのかどうだったか、もう忘れちゃったけれど、即座に教室を飛び出して帰った。説明できなかったから。うまく説明できないけれど、もう笑って平気な顔をしてはいられなかったから。
ちょうど中学2年の終わり、2011年の頭だった

さらに戦況は悪化した。私はもう生きる気力を失っていたし、それは母親の不機嫌度合いを上昇させるばかりだった。

そんな中、3月11日に東日本大震災が起きて、この戦争はほんのわずかばかりの休戦をみることになった。あのときは、世の中がみんな、ひっくり返っていたから。

同時に、あの地震は、私の肩を後押しした。ついに初めて、自分以外の第三者に、自分の抱えていた悩みを打ち明けた。相手は、先の合唱祭で信頼関係を築いた同級生たち。そこから、信頼できそうなクラスメイトに少しずつ。
ある意味、吹っ切れたのかもしれない。いつ消えてしまっても、いいように。

理解者を得た直後は、とても晴れやかな気分だった。
でも、時の流れは待ってくれなくて、高校受験が近づいてゆくごとに、みんなのストレスレベルが上がっていった。私と母親の戦いは、社会が震災から回復するにつれて、再び冷戦時代に突入した。
そして3年生になると、私は最初に打ち明けた理解者たちと別のクラスになった。またリセットだ。そして、その理解者たちも、自分たちの進路で手一杯になって離れていく。私は、またいなくなってしまった。

気づいたら、また冬がやってきた。
受験というイベントが、また私を傷つけた。
成績は、相変わらず芳しくない。
同じ附属の高校に行くにも試験は受けなければならず、少なくない人数が落ちることになっていた。
行くつもりもないのに、目標偏差値帯の数字から、男子高も候補に上がる。私は、反論する勇気がなかった。
すべり止めもいくつか受けなければいけない。
そうして、4校ほどがリストに挙がった。

周りの大人は、私を脅した。
いい大学にいくことで、どれだけ人生が楽になるか。そのためには、いい高校に行くことが一番の近道である、と。
偏差値が下がれば下がるほど、それは人生に大きな負の影響を与えると。
あれは、本当に洗脳だったと思う。

そしてまた、重要な他者がひとり消える。
祖父の訃報を知らせる電話が鳴ったのは、家庭教師が来る数時間前だった。私は内心、それで今日の授業が消えることを喜んだ。同時に、またひとり、打ち明けられないまま消えていった人間が増えたことに思いを馳せていた。私にとっては、祖父が父親代わりだったのかもしれない。そして、母親にとっては、紛れもなくそれは父親だった。

戦況は悪化するばかりだった。
いつだって、そこがどん底だと思えた。

どんどん生活環境が崩壊していく中、私はもう、自分が置かれた今の状況に耐えきれなくなってきた。それに、親や先生も、私のこの無気力さの背後には何かがあるのではないか、と薄々感じていたようだった。

そうして、担任の先生に、打ち明けることにした。私の悩んでいたことを。
そして、担任の先生を頼った。私の母親に、担任の先生から、その話を伝えてほしい、と。

私にはもう、直接伝えるだけのエネルギーが残されていなかった。
その選択しか、なかった。

担任の先生は、とても親身になって話を聞いてくれた。
同時に、卒業まであと数カ月のタイミングであることを考えると、いまここで何か目に見えるアクションをとるのは得策ではないかもしれない、と言った。それは、私も同意見だったし、怖かった。たとえ入試に合格したとしても、私のことがバレたら、高校が入学させてくれない、なんてことがないとは、確信を持って言えなかった。

だから、私はまた、我慢した。どうせ、残りの登校日もそんなに多くない。それが一番迷惑をかけない方法だと、自分に言い聞かせて。

担任の先生から母親に話が伝わった夜、母親は泣きながら帰ってきた。そのときは、少し優しかったかもしれない。でも、私は怖かった。母親の不安定さが。そして何より、私はもう、あまり母親のことを信じられなくなっていた。

少しして今度は、先の担任が、突然休職することになった。学年担任の先生が、一時的に引き継ぐということが知らされた。私は戦慄した。もしかして、これは私のせいだろうか?誰かに頼ろうとすると、いつもこうなる。そうして、みんないなくなる。そういう運命なのではないか、と。

結局、私は、また目標を叶えられずに、中学の卒業式を迎えた。次こそは。高校の間には。
でも、今度もどうせ、無理なんだろうな。
それに、もう間に合わないかもしれない。
私は、考えないことにした。

少しばかりのいいニュースとしては、受験した高校のすべてから合格をもらうことができた。これで多少は、母親を見返すことができたのかもしれない。本当に、これは幸運だった。

そういうわけで、私はまた顔を見知った人々と共に、高校に進むことになった。

…はあ、また、そう、制服だよ。今度は、ちゃんとした制服がある。もちろん、男女別。セーラーと詰襟。
私は、本当に本当に僅かだが、母親がなにかしてくれるのではないかと期待していた。もしかしたら、学校にかけあって、最初から配慮してもらえるようにしてくれるのではないか。そうでなくても、学校では無理でも、両方の制服を買ってくれるとか、そういうことがあるんじゃないかって、少しだけ期待していた。

そんなこと、あるわけがなかった。
私のもとには、詰襟の制服が届いた。
「だって思い過ごしかもしれないでしょう?」
「高校の間は我慢してくれない?」
「大学行って自分で稼ぐようになったら好きにしてくれていいから」
「あんたそんなの無理に決まってるでしょ」

私が打ち明けた同級生のうち何人かは、別の高校へと進んだ。
そして、残ったのは1人だけ。
一学年あたり300人超。
理解者はひとり。

孤独な戦いが、また幕を開けた。

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